今日、この記事を書こうか正直悩みました。
ですが、いつかは書きたい事だったので思い切って書こうと思います。
この記事を読んで誰かの力になる事を信じて。
実は、農業を始めたきっかけは農業がやりたいから!という直接的な情熱ではなく、農業だと妻と一緒に働けるからという部分が非常に強いのです。
妻は幼少期に片親だった母に捨てられ、その後はお婆さんとお爺さんに育てられ、とても複雑な家庭環境で育ちました。
子供の時に親からの愛情が十分じゃないと精神的に不安定になってしまう事があるようで、妻もそうでした。
何か大きなショックがあると、過呼吸になってしまったり、不安が強かったりするのはそのせいだと思います。
妻は第二子を出産直前に亡くし、親代わりに育ててくれていたお爺さんも数年後に亡くなってしまいました。
そのショックから死の恐怖、病気の恐怖が強くなり、潔癖症のようになり、パニック症になってしまいました。
それまでは僕も会社で夜勤をする仕事をしていましたが、会社にお願いして昼勤をさせていただきましたが、リーマンショクの不景気も重なり、会社的にも家計的にも夜勤の復帰が必要だったため希望退職の時に思い切って退職する事にしました。
妻は、通院し抗うつ剤も服用していましたが、回復の兆しもなく、抗うつ剤の難しさもありましたし、薬に頼らないで治す方法を探して、夫婦で挑戦してみました。
色々あると思いますが、妻がかかったパニック症は以前はパニック症候群と呼ばれているもので、ひどい時にはパニック発作と呼ばれる「ひきつけ」のような状態になる事もありました。
家事もできない、車も運転できない、外食も、レジで並ぶ事もできませんでした。子育てはギリギリできましたが、やるしかない状況で、子供と遊ぶ事が難しく、いつもソファーで横になっているママでした。
子供はまだ小さく、幼稚園に通う前だったので大変でしたが、幼稚園に通っていたらそれはそれで人付き合いがあるので難しかったと思います。
そのおかげか?子供は賢く優しく育ちました。でも我慢をいっぱいしたので、妻が良くなってからもしばらく甘えん坊でしたが。
僕は、仕事を退職し、家でできる仕事を見つけてやっていましたが、妻の調子が悪い時は仕事にならず大変でした。焦りや見通しの甘さもあったので仕事も上手くは行かずに断念せざるを得ませんでした。
ですが、僕が家にいた期間に妻の病状はどんどん良くなり、パニック発作はほとんど無くなりましたし、以前とほぼ同じように生活できるようになりました。それは本当に良かったです。
しかし生活する為には仕事が必要です。僕も妻も学歴が低く、高収入の仕事はありませんので、共働きで何とか生活できるレベルです。
せめて夜勤があれば手当てがつくので僕1人でもやっていけるのですが、夜は家を空けられません。
夫婦で考え抜いたあげく、農業の道を見つけました!
農業は自然と共に生きていることを何よりも感じながら出来る素晴らしい職業です。
僕らにとって農業は、正に希望の光でした。
そこからはトントン拍子で進んでいきました。
体力的な心配も、作物の選定もあったのでリンゴ農家さんで働かせていただき、そこから普及センターの紹介でトマト農家さん(現在の師匠)と出会い、トマト農家を目指す事にしました。
トマトなら単価も高く、頑張れば夫婦2人でもやっていけるという事だったので僕らには必然的だったと思います。
それから2年間の研修に入り、中古住宅を購入し、セルフリフォームをしたり、中古ハウスを譲っていただいて、費用を抑えるために自分達で解体し組み立て、ビニールも2人で貼りました。
目まぐるしい毎日でしたが、妻はよくついてきてくれたと思います。
今現在、妻の状態はすっかり良くなっています。パニック症は克服しました。
僕が思うにはパニック症の1番大事なものは薬ではなく、本人と家族の協力だと思います。
僕らのような夫婦もなかなかいないと思いますが、もしいたら、そして今現在悩んでいる真っ最中だとしたら、トマト農家や農家という選択肢はありだと思います。
少なくても僕らはこの道で良かったと思っています。
ですが、最近は僕1人で頑張り過ぎている感じで、夫婦二人三脚ではない時がありました。
パニック症というわけではありませんが少し妻の調子が良くなく、僕も忙しさのせいで妻とゆっくり話す時間が作れなく、そのしわ寄せが妻の調子に影響してしまいました。
僕らは二人三脚でここまで来ました。
そして僕らはきっと見えない赤い糸で結ばれているのだと思います。
僕らの見えない赤い糸は、極端に短く、片方が先に行き過ぎるとお互いに痛い思いをしたり、上手く進めなかったりして大変です。
だから僕らは二人三脚がちょうどいいのですね。
これからはもっと妻を大事にしようと思います。